読書記録: ふしぎなキリスト教

 「イエス・キリストとは何者なのか」「ユダヤ教とキリスト教はどう違うのか」「絶対神が世界を創ったのならば、なぜ世界に悪があるのか」「楽園追放、ソドムとゴモラ、ノアの箱舟のエピソードなどに見られる『後悔する神』は本当に絶対的なのか」。
聖書を少しでも知る人は、こうした疑問が浮かんだことはないでしょうか。本書は、こうした基本的かつ重要な疑問に、二人の社会学者の対談を通して解釈を導くものです。
念のため書いておくと、本書は特定の宗教の価値観を伝えるための作品ではなく、むしろフラットな立場で、挑戦的にユダヤ教やキリスト教への疑問を投げかける作品となっています。

※以下本書および遠藤周作の『沈黙』の内容に触れています、ネタバレを極度に気にされる場合はご注意ください。

書籍情報

  • 橋爪 大三郎・大澤 真幸 著
  • 2011年5月20日発刊

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

要約

 われわれが生きる社会、「近代社会」を捉えようとしたときに、キーワードの一つとなるものが「西洋化」である。
そして、このキーワードに含まれる「西洋」というものは、キリスト教をアイデンティティの根幹に持つ文明である、と著者は述べる。
ところが、日本人は諸外国と比べ、近代社会のルーツに深く関わるこの「キリスト教」というものを、最も理解していない部類の人種である。
近年様々な困難に直面する近代社会において、そこに生きるわれわれがこれら困難を乗り越え、新たな社会の選択や制度の構想ができるようになるためには、近代社会を、ひいてはキリスト教に根差す西洋を相対化できるようになる必要がある。
そこで本書は、キリスト教をよく知らない人にも、またよく知る人にも「キリスト教」というものをより理解する手助けとなるよう、二人の社会学者が素朴な疑問とそれに対する回答をぶつけ合い、キリスト教という宗教の特徴を浮き彫りにしていく対談を収めたものとなっている。

 本書は三部構成となっており、第一部『一神教を理解する』ではキリスト教の起源となったユダヤ教を取り上げつつ、一神教、旧約聖書について議論する。
第二部『イエス・キリストとは何か』では、ユダヤ教やイスラム教と比べて、キリスト教がいかに「ふしぎ」なものか、それはなぜかなどを取り上げて議論する。
第三部『いかに「西洋」をつくったか』では、ローマ国教化、数度の公会議、ギリシア哲学との融合、宗教改革、アリストテレス的自然学を脱する科学革命との共存などの変遷を経て、いかにして西洋社会の基礎となったのかを議論する。

 本書は、基本的に著者の一人、大澤氏が橋爪氏に、「素朴にして重要」な疑問をぶつけ、橋爪氏がそれに答える、という形式で進んでいく。
そこに宗教的タブーはなく、フラットな視点で聖書などを初めて読んだときに多くの人に浮かぶであろう疑問、例えばなぜ神を信じながらも多くの苦難を経験したユダヤ人がユダヤ教を維持できたのか、ヨブ記の意義、科学革命以降の自然科学がなぜ敬虔なプロテスタントの中から出てきたのか、などについて議論されている。

内容紹介

 要約部に書いた通り、本書は二人の社会学者の対談形式、それも大澤氏が橋爪氏にユダヤ教・キリスト教に関して挑戦的な質問をする、という形式で進む。
こうした対談形式のため、本書は非常に読みやすいものとなっている。
また、大澤氏の質問も非常に基本的だけれどもだからこそ興味深いものであり、それに対する橋爪氏の回答も、前提を整理し、ときにはその中から考えられる解釈の案をいくつか提示するなど、納得感がありつつもあくまで解釈であることを読者に忘れさせない、学術的に好感の持てるものであった印象がある。

 大澤氏の質問は、「確かにそれは気になっていた」と思うようなものばかりである。
いくつかピックアップしてみよう。
例えば、第一部では、なぜユダヤ民族が数々の受難の中でもユダヤ教への信仰を失わずにいられたのか、という質問がある。
これを取り上げている章のタイトルは、「なぜ、安全を保障してくれない神を信じ続けるのか」である。
せっかくなので、この質問の前提となる、ユダヤ民族の受難の歴史を簡単に整理してみよう。

 エデン追放、ノアの箱舟などはさておき、事実に関わりそうなところのみ、ユダヤ民族の歴史を抜粋してみる。
まず、モーセ以前の一定期間、ユダヤ民族はエジプトで奴隷的な扱いを受けていた。
その後前12世紀頃にモーセに率いられてエジプトを脱出し、カナン(パレスチナ)に入植する。
前11世紀末頃にヘブライ王国を建国するが、前926年頃に王国は北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂し、前722年にアッシリアに攻められイスラエル王国が滅亡する。
前586年には残ったユダ王国も新バビロニアに滅ぼされ、前538年までバビロン捕囚と呼ばれる時期を過ごす。

 このようにしてみると、ユダヤ民族は受難の連続という印象を受ける。
彼らはモーセ以前から、ヤハウェ(YHWH)という唯一神を信仰していたにもかかわらず、ここに挙げたものだけでも、エジプトによる奴隷化、王国の分裂、王国の滅亡、バビロン捕囚と、非常な苦難を経験してきている。
こうした苦難の中で、中々救われないにもかかわらず、なぜ信仰を維持できたのか。
橋爪氏は大澤氏の質問を受け、以下のように答えている。

ユダヤ教の律法は、ユダヤ民族の生活のルールをひとつ残らず列挙して、それをヤハウェの命令(神との契約)だとする。...... もしも日本がどこかの国に占領されて、みながニューヨークみたいなところに拉致されるとする。百年経っても子孫が、日本人のままでいるにはどうしたらいいか。それには、日本人の習俗習慣を、なるべくたくさん列挙する。そして、法律にしてしまえばいいんです。正月にはお雑煮を食べなさい。お餅はこう切って、鶏肉と里イモとほうれん草を入れること。夏には浴衣を着て、花火大会を見物に行くこと。……みたいなことが、ぎっしり書いてある本を作る。そしてそれを、天照大神との契約にする。これを守って暮らせば百年経っても、いや千年経っても、日本人のままでいられるのではないか。こういう考えで、律法はできているんですね。 (p. 43)

 このように、逆に外部要因によって国家が崩壊し、民族が離散する危機の中にあったからこそ、民族的アイデンティティを保つために習俗を規定した律法を作り、それを守ったのだと答えている。
民族を規定するものが人種などを決定因とせず、一定の文化・習俗を共有する集団だと捉えるならば、確かにこの考え方は理に適っていると言える。
すなわち、ユダヤ教およびそれを支える律法は、民族的アイデンティティをディアスポラの危機の中でも保つために機能し、このためにバビロン捕囚の後でもユダヤ民族の再集結・共同体の再建に寄与したと考えられる*1

 この他にもいろいろとおもしろい話はあるが、もう一つ印象に残ったものとして、科学と奇跡、呪術の関係性がある。
前提として、日本人が日本語でとらえる「神」と、西洋の一神教的な "God" は異なる概念であることが述べられている。
ユダヤ教、キリスト教などの一神教における "God" は、日本人が例えば八百万の「神」を考えるときに抱くような、あるいはギリシア・ローマ神話などの多神教における神のような近しい存在ではなく、絶対的な力を持って人間を支配し、人間からはその考えをうかがい知ることなどできないような、地球外生命体のような遠い存在だとする。
そうした絶対的存在によって創られたのがこの世界、自然、"nature" であり、科学を信じるということは、絶対的存在が創った、動かしようのない自然法則を認めるということである。
そして奇跡とは、創造主である絶対的存在にしかできない、自然法則の例外を起こすことである。

通常、世界は自然法則に従って運行している。
しかし、預言者を通して人間に言葉を伝えるときなど、神がその必要性を認めたときに、奇跡は預言者の裏付けなどをする目的で、例外的に一神教の神が起こすものである。
このように、一神教的世界観において、科学を信じることと奇跡を信じることは両立し得る、となる*2

一方、一般的に想像される科学の代わりに奇跡の対極にあるのが、呪術である、と著者らは述べる。
呪術やマジックはあくまで自然法則の中で起きるものであり、また呪術は「神」を強制する、場合によっては使役するという形式を取る、一神教とは相容れないものである、と言う。
このあたりの議論は、我々よりもずっとキリスト教文化に近い人間であったマックス・ウェーバーの著作『古代ユダヤ教』でも説かれているらしく、日本人には理解が困難だが、一神教文化の中では理解できるものであるらしい。
すなわち、呪術の逆に科学があり、奇跡は科学の側に属する、と結論付けている。
確かに、わたしの記憶の限りでは人間がユダヤ・キリスト教の神を強いたことはなく、いずれも神の側の必要に応じて引き起こされたものが奇跡であることは納得ができる。

多神教的、少なくとも一般的な日本文化の中で生きる者の目線からは、西洋における科学と奇跡信仰の両立が不思議に映るが、こうした解釈でこれら矛盾は解消できるという観点は興味深いものだった*3

感想

 何で読んだか忘れてしまい、記憶もあやふやなのですが、こんな逸話を思い出しました。
柳田国男がある学生か何かに「あなたは特定の宗教を信じているか」と尋ねたところ、尋ねられた方は「信じていない」と答えた。
そこで、柳田国男は「そうか、それでは墓地に行って墓を倒してこい」と言ったところ、学生は「それはできない」と答えた。
それを受けて柳田国男は、「お前は宗教を信じているじゃないか」などと言った......というエピソードがあったような気がしますが、調べても出てこないので勘違いかもしれません。
思い当たる方がいたら教えてください。

このあやふやな記憶だけでは、逸話中の学生の回答は信仰の有無に因るものではなくではなく他者の価値観を踏みにじることを否定しただけでは? とも思いますが、それは置いておいても、「私は無宗教です」と言いながらもお盆には先祖の霊を迎え、正月には初詣をし、親族のお葬式から数年ごとに年忌を行ったりする日本人の特殊性を示す好例ではないかと思います。
これが、本書で言うところの「態度レベルの信仰」に当たるものであり、これと類似したレベルで、はっきりとした形を取らないが通底しているものが、キリスト教圏でもあるのでしょう。
ただし、書中で両氏は、日本人のこうした態度は矛盾を矛盾とすら解さずに無批判に取り込んでいるだけであり、一方でキリスト教圏の多数派および福音派は聖書と科学の間にある矛盾を理解した上で、聖書と科学どちらを優先するかの重みづけをそれぞれして取り込んでいるので、日本とは質的に異なる、と言っています。

 またまた連想に基づく感想ですが、書中で「神との不断のコミュニケーションである祈りが、人生の苦難を試練と捉えさせ、信仰を維持する」といった内容を述べています。
そしてこの考えが端的に表れる例がヨブ記であり、神との対話、自らへの試練を受容することの必要性が表れています*4

この命題を改めて考えて、遠藤周作の『沈黙』を思い出しました。
『沈黙』では、江戸時代の日本を訪れた二人の宣教師が、キリシタン弾圧の中で自らへの拷問などに耐えながらも信仰の正しさを信じて布教を続けます。
しかし、その拷問や処刑の対象が信徒に広がったとき、自身の苦しみには耐え抜けても信徒の苦しみに耐えきれず、沈黙を続ける神に悲痛に問いかけ、最終的にどちらも「転ぶ」、という結末だったと記憶しています。

 ヨブには、信仰を維持することの代償は(それほどには)なかったのではないでしょうか。
一方、『沈黙』の宣教師、ロドリゴとフェレイラは、信仰維持の代償として、信徒の命や苦痛、またそれを観測する自身の心の苦しみがあったと思います。
ロドリゴは、棄教の瞬間、何度も踏まれて顔もなくした踏み絵の中のキリストに、「踏むがよい」という声を聴いたという描写があったかと思いますが、この儀式を経たロドリゴは果たして「信仰を維持」できたことになるのか。
ヨブのように、神の心を推し量ることなどできないのだから、それでも信じ続けるべきだったのか。
そもそも、踏み絵のキリストが一神教が禁じる偶像でもある、ということも興味深い点かと思いますが、「信仰」というテーマは非常に深遠なものだと改めて気づかせてくれます。
著者が述べるように、信仰が神との不断のコミュニケーションであるならば、ロドリゴやフェレイラは、棄教したが信仰は続けられたのかもしれません。

 沈黙の書評ではないのでこの辺で止めておきますが、意識的な宗教と遠い現代日本に生きる我々には、本書『ふしぎなキリスト教』は、閉じた視野を開かせてくれるきっかけになる本だと思います。
『沈黙』などの文学作品もそうですが、キリスト教は様々な文化の中に登場するので、本書をきっかけに私のように様々な連想が広がるかもしれません。
思った以上に長くなりましたが、気になった方は是非ご一読ください。  題名に比して、キリスト教ではなくユダヤ教的な部分にフォーカスを当てた書評となってしまいましたが、書中ではキリスト教のあれこれももちろん中心的に取り上げています。

 たびたび書中で言及されていたマックス・ウェーバーの著作『古代ユダヤ教』『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、興味はあったのですが恥ずかしながら浅学の身でいまだ読んでいないので、近いうちに読んでみたいです。

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

古代ユダヤ教 (下) (岩波文庫)

古代ユダヤ教 (下) (岩波文庫)

古代ユダヤ教 (上) (岩波文庫)

古代ユダヤ教 (上) (岩波文庫)

古代ユダヤ教 (中) (岩波文庫)

古代ユダヤ教 (中) (岩波文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

*1:エジプトでの奴隷生活とバビロン捕囚ではどう違うのか、とも思ったが、そもそもモーセが十戒の石板を授けられたのが現在に近い律法の始めだとするならば、エピソードの真偽はともかく出エジプトの頃に律法が初めてできた、と考えると辻褄は合いそう

*2:ただし書中でも触れられているが、多神教の文化に生き、キリスト教圏の文化から遠い日本人にはこの感覚は正直飲み込みづらいのは事実である。それを克服すべきということだが直感的には納得が難しいものではある

*3:なお、現代社会において「聖書に矛盾しない範囲で科学を信じる」福音派と、「科学に矛盾しない範囲で清書を信じる」多数派が存在し、それぞれ異なる考えであることは注意したい

*4:ヨブ記では、敬虔な信徒ヨブの信仰を試すことをサタンが神に持ち掛け、これによって多くの不幸がヨブの身に降りかかります。家族、財産、健康を失っても信じ続けたヨブですが、最後には髪を呪う言葉を吐いてしまう。そこで初めて神は応え、ヨブの傲慢を戒めつつも、そこまで信仰を捨てなかったヨブの健康や財産を回復させ、めでたし、というお話です。正直わたしは、「試練」の段階で失われた家族の命は戻らないのであまりな話だ、と思ってしまうのですが、これはわたしの理解か信仰が足らないためかもしれません。ただしこのもやもやを持つのはわたしだけではないという安心材料として、ヨブ記は神学論争の好題になっているようです